偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/松山市立子規記念博物館][写真提供/松山市立子規記念博物館]

山頭火に慕われた夭折の自由律俳人
「いち早く枯れる草なれば実を結ぶ」

野村朱燐洞

のむらしゅりんどう

向学心がありながら、家庭の事情で進学をあきらめざるを得なかった朱燐洞は、働きながら松山夜学校(現・松山城南高校)や通信教育で学ぶとともに、役所の上司に短歌を学んだ。16歳で愛媛新報に句が入選、輝かしい才能の片鱗を見せる。

柏葉と号していたが、ほどなく「朱燐洞」に改号、自由律の荻原井泉水(せいせんすい)創刊の「層雲」に参加する。色白で線の細い青年に対する井泉水の初印象は「地を這う蔓草のやうに、鋭い神経を集めた細い肉体と、深く土に喰ひ込んで行く強い意力の根を持ってゐる人」。

同年、松山で「十六夜(いざよい)吟社」を結成。県外からの投句もあり、山頭火もその一人だった。大自然の光明をみずみずしく捉えた詩情豊かな句により、子規の再来と称される。18歳の若さで海南新聞俳壇の選者となり、極堂や霽月などホトトギス派の古老を向こうに回して論陣を張ったが、虚子の俳壇復帰に伴い、自由律俳句は地元新聞から排斥される。だが、「層雲」は隆盛を誇り、同誌の選者となった朱燐洞は全国的な知名度を得た。

「層雲」の後継を嘱望されたが、大正7年10月、スペイン風邪であっけなくこの世を去る。死を予言したように、「いち早く枯れる草なれば実を結ぶ」を数カ月前に詠んだ。早すぎる死は「子どもを失くしたよう」と井泉水を嘆かせ、朱燐洞を慕った山頭火もまた、「一すじの煙悲しや日輪しづむ」と悼んだ。

山頭火が松山を訪れたのは、その墓参のためでもあった。

【略歴】

明治26年(1893)11月、愛媛県温泉郡素鵞村大字小坂(現・松山市小坂町)生まれ。本名・守隣(もりちか)。第一尋常小学校(現・番町小学校)、松山高等小学校と進み、12歳で温泉郡役所の給仕に。短歌を上司・和田汪洋に学び「柏葉」と号す。44年「朱燐洞」に改める。同年、荻原井泉水創刊の「層雲」に参加し、俳句結社「十六夜吟社」を結成。45年、18歳で海南新聞俳句欄、大正5年には「層雲」選者となる。7年(1918)10月、スペイン風邪にて24歳で死去。

【ゆかりの地】

朱燐洞の墓所

朱燐洞の墓所

阿扶志(あぶし)共同墓地にある墓。昭和14年10月1日、山頭火は念願の墓参を果たした。(松山市小坂1丁目いよてつGOLF南)

多聞院

多聞院

野村家の菩提寺で、朱燐洞直筆の句碑がある。(松山市枝松4丁目4-8)

愛媛にある野村朱燐洞の主な句碑一覧を見る

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