[写真提供/一茶記念館]
二度にわたり松山の樗堂を訪問
「痩蛙まけるな一茶是に有」
小林一茶
こばやしいっさ
他人の厚意を頼りに旅を続ける己の姿を「乞食」と自嘲しつつ、俳諧修行のため各地を歩いた一茶。30歳で初めて西国に足を踏み入れ、伊予では土居、新居浜、西条、今治、北条を経て松山にたどりつく。師の二六庵竹阿(にろくあんちくあ)がかつてたどった道であり、その面影を偲ぶ旅でもあった。
全国でも十指に入る俳人・栗田樗堂(くりたちょどう)を松山に訪ねた一茶は、自分より14歳年長の樗堂に厚遇される。はやくも翌年秋には再訪、半年におよぶ長逗留で松山近郊の俳人と交流した。松山の大林寺前で見た蛙合戦から、「痩蛙」の句が生まれたという説もある。
その後、二人が再び相まみえることはなく、「生きて再びお目にかかることはできないでしょう」としたためた樗堂の手紙を一茶が手にした時、すでに樗堂はこの世の人ではなかった。
「大事な人を失くし」気力を失った一茶は帰郷。遺産相続で異母弟と争い、財産の半分を勝ち取る。52歳で結婚し子をもうけるが、妻子の死など、晩年は不幸が続いた。
一茶の句には子どもや小動物を詠んだものが多い。弱きものへ注がれる一茶のやわらかなまなざし。そこに見たのは己の影だろう。農村の暮らしに根ざした平明で温かみのある句は明治末頃から見直され、やがて芭蕉、蕪村と並ぶ江戸期の三大俳人と称されるようになる。
宝暦13年(1763)信濃の柏原村(現・長野県信濃町柏原)に生まれる。3歳で母が死去、継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出される。20代なかばで二六庵竹阿に師事。寛政7年(1795)33歳で伊予を訪問。竹阿と親しかった松山の栗田樗堂を訪ね、20日ほど滞在。翌秋の再訪では半年以上を過ごした。52歳で結婚、妻子の相次ぐ死去後、二度の結婚を重ね、文政10年(1827)、65年の生涯を閉じる。



一茶の道
一茶が歩いた松山市北条地区の下難波から最明寺までの約4.5kmのルートは「一茶の道」として整備されている。途中にある最明寺(さいみょうじ)には、一茶像の刻まれた句碑がある。