偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/八幡浜市教育委員会][写真提供/八幡浜市教育委員会]

人間心理を凝視した異色の俳人
「蝶墜ちて大音響の結氷期」

富澤赤黄男

とみざわかきお

赤黄男はしばしばツキに見放された。宇和島藩の御典医を代々勤めた医家の長男として将来を嘱望されたが、鹿児島の第七高等学校受験の前日に大事な右腕を骨折。また、セメント袋製造会社を興すが、事業が軌道に乗り始めたころに台風で工場が流されている。

職はいずれも長続きせず、妻と幼子を連れて住まいを転々としたが、これは「俳句は詩である」と公言した赤黄男の詩人としての魂のなせるわざだろう。

その俳句だが、大学時代に松根東洋城の「渋柿」に投句を始め、家庭の事情で帰郷後は地元の結社に参加。本名の正三をもじり「蕉左右」を俳号としたが、ほどなく「赤黄男」に。地元で歳末にたつ柿市にちなむとされる。

昭和10年に日野草城の「旗艦」に加わり、鋭い美意識をもって人間の内面を凝視する前衛的な句だけでなく、自由主義の立場から評論などを積極的に発表、新興俳句運動の旗手と目された。

2度の召集で外地に送られたが、戦場の極限状態の中で旺盛な創作意欲をみせた。象徴主義と評される難解な句で知られる赤黄男だが、戦場で幼い娘を思って詠んだ「灯をともし潤子のやうな小さいランプ」のような抒情的で美しい句も残した。

戦後は「太陽系」「詩歌殿」「薔薇」を創刊、現代詩を思わせるシュールな作風で詩人にもファンが多い。故郷では顕彰俳句大会が毎年3月に開催され、異色の俳人を偲ぶ。

【略歴】

明治35年(1902)西宇和郡川之石村(現・八幡浜市保内町)生まれ。早稲田大学政経学部卒。昭和5年(1930)に帰郷し、地元の俳句結社「美名瀬吟社」に参加。10年「旗艦」(日野草城主宰)に参加、俳句、評論などを発表。12~15年、16~19年応召。戦後、「太陽系」「詩歌殿」「薔薇」創刊。37年肺がんのため逝去、亨年59。61年、保内町で富澤赤黄男顕彰俳句大会始まる。句集に『天の狼』『蛇の笛』『黙示』。

【ゆかりの地】

富澤赤黄男句碑広場

富澤赤黄男句碑広場

八幡浜市保内町川之石の琴平公園内にある。胸像レリーフ、句碑のほか、俳句ポストも置かれている。

愛媛にある富澤赤黄男の主な句碑一覧を見る

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