[写真提供/松野町教育委員会]
‘’彗星(コメット)のごとく‘’
抒情豊かな夭折の俳人
芝不器男
しばふきお
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
この句は、東北帝国大学の学生だった不器男が故郷の松野町松丸に思いをはせて詠んだもの。前書きに「仙台につく、みちはるかなる伊予のわが家をおもへば」とある。昭和2年、「ホトトギス」誌上で高浜虚子の名鑑賞を得て、不器男は一躍注目を浴びる俳人となった。彼はこの句を、故郷に住む兄嫁梅子への手紙に書き送っている。「あなたなる」は「遠く彼方」という意味だが、「あなた」というニュアンスも微かに感じられる。不器男の生家は養蚕業を営んでいた。祖父、父、姉、兄たちも俳句に親しみ、家族句会が開かれるなど恵まれた環境で育った。小学生で子規句集を拾い読みしたり、高校生で虚子句集を愛読するなどその早熟ぶりがうかがえる。山登りが好きで、実家に近い河後森城(かごもりじょう)には、たびたび足を運んだという。山頂から見る故郷の風景は、不器男の感受性を存分に育んだことだろう。高等学校時代には、四国アルプスを縦走、日本アルプスも踏破している。当時、ハイカラだった登山への挑戦は、新しい俳句に挑戦する姿勢にも通じる。
俳誌「天の川」の新進作家となった不器男は、原石鼎の「鹿火屋」、塩崎素月の「葉桜」、水原秋桜子選の「破魔弓」にも投句。俳人としての充実期を迎える。私生活では、25歳で太宰文江と結婚し婿養子となるが、翌年病を得て入院。昭和5年死去。「彗星の様に俳壇を通過した」と横山白虹に評された不器男は、短い生涯を駆け抜け、抒情溢れる珠玉の俳句を数多く残した。
明治36年、愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町松丸)に生まれる。本名、不器男。県立宇和島中学校、松山高等学校を経て、東京帝国大学農学部林学科に入学したが、関東大震災をきっかけに休学。大正14年、中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。吉岡禅寺洞主宰の「天の川」の新進作家として活躍するようになる。冬休みに帰省したまま仙台には戻らなかった。家郷では盛んに句会が開かれる。昭和2年、「葉桜」の課題選者になる。昭和3年、「天の川」で不器男の特集が組まれ、課題選者となる。「ホトトギス」誌上に水原秋桜子が「新進作家論」として取り上げる。昭和4年、発病。九州帝国大学病院に入院後、福岡市内に療養のため仮寓。昭和5年、2月24日、死去。