偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/松山市立子規記念博物館][写真提供/松山市立子規記念博物館]

漱石を師と仰ぎ「渋柿」創刊
「黛を濃うせよ草は芳しき」

松根東洋城

まつねとうようじょう

東洋城は育ちの良さに加え、優れた容姿の持ち主だった。松山中学でも校内一の美少年で知られたと、軍人で『此一戦』の著者水野広徳が明かしている。

裁判官の父について各地を転々としたのち松山中学で漱石の授業を受けるのだが、この出会いが東洋城の人生を決定した。一高入学前後から句作を始めた東洋城は漱石を俳句の師と仰ぎ、すでに熊本に移っていた漱石に添削指導を受けたのである。「東洋城」は本名から。

大学卒業後は宮内省で式部官、書記官などを歴任。俳壇をリードする「国民俳壇」選者を虚子から受け継いで定型俳句の旗手として活躍、久保田万太郎、飯田蛇笏などを育てた。

大正4年に「渋柿」を創刊、表題は漱石の筆になる。その前年、大正天皇から「俳句とは如何なるものか」と問われ、「渋柿の如きものにては候へど」の句を奉じている。

大正5年、「国民俳壇」選者に虚子の復帰が決まった。いきさつについて東洋城は多くを語らなかったが、虚子が座を奪ったと門弟は憤慨し、以後、東洋城と虚子は不和となる。

退官後は全国を回って門弟の指導にあたったが、その指導は「俳諧道場」と称されるほど厳しいものだった。誤解から離れていく人もいたが、熱烈な支持者が多かったのも事実だ。宇和島空襲で家財を失った東洋城は、東京の貸間で弧高の人生を静かに終えた。今も続く「渋柿」は、創刊から1世紀を迎えようとしている。

【略歴】

明治11年(1878)2月、東京築地生まれ。本名・豊次郎。裁判官の父・権六は宇和島藩城代家老松根図書(ずしょ)の長男、母は藩主・伊達宗城(むねなり)の次女。愛媛県尋常中学校(松山中学)4年生の時、漱石が松山へ赴任。東京の第一高等学校入学後も、熊本の漱石に俳句の添削を受ける。東京帝大から京都帝大へ移り、卒業後は宮内省の式部官、書記官などを歴任(大正8年退官)。大正4年「渋柿」主宰創刊。「国民俳壇」「朝日俳壇」選者を務める。昭和39年10月、心不全のため86歳で死去。生涯独身で通した。

【ゆかりの地】

一畳庵

一畳庵(いちじょうあん)

東温市の惣河内(そうこうち)神社にある。門人で惣河内神社神職・佐伯巨星塔の好意により、社務所の一隅に昭和25年から27年にかけてのべ15カ月滞在。「渋柿」門人への指導、編集の場ともなった。(東温市河之内4876)

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