[写真提供/松山市立子規記念博物館]
平常心を詠む
「秋晴の城山を見てまづ嬉し」
今井つる女
いまいつるじょ
「私の脳裡に浮かぶ松山は、あの一番町のお山から見た松山である。幼い頭に浸み込んだ一望の景色、久万の連山、桜の老木、椎の実、池の堤の茅花、数えれば限りがない追憶、幼時の六年間をあの美しいお山で暮らせたことは私の生涯の幸せであったと思う」。つる女は、その著書『生い立ち』でこのように回想している。一番町のお山とは、旧藩主久松家の別邸。養父が久松家の家職となったため移り住んだ。この別邸は現在の萬翠荘の場所にあり、久松家所有以前は、菅という家老の屋敷だった。夏目漱石が松山中学に赴任した際、一番先に下宿したという家でもある。屋敷の井戸端には一本の桜の大樹があり、落花の頃にはその下の広っぱが花びらで厚く敷きつめられた。幼いつる女は、そこを「さくらもと」と名付け親しんだという。この美しい言葉の斡旋に、つる女の俳人としての感性の原点がうかがえる。また、後に住んだ玉川町(現・一番町)の家は、虚子が上京まで過ごした家。つる女の勉強部屋は離れの二階で、若き日の虚子の勉強部屋でもあった。後年、ここを訪れた虚子は、「この二階は、子規居士も訪ねて来たし、漱石も来た歴史的な二階だよ」と話したという。
つる女は、虚子や池内たけし(虚子の次兄 池内信嘉の長男)から俳句を学び、俳誌「ホトトギス」で活躍した。また、愛媛新聞「婦人俳壇」の選者を30年以上続けるなど愛媛の婦人俳句の普及と後進の指導に尽力した。この「婦人俳壇」選者は、娘の今井千鶴子に引き継がれ現在に到る。つる女の心は今も故郷の地に脈々と息づいている。
明治30年6月16日、松山市生まれ。本名、池内鶴。高浜虚子は叔父に当たる。生後間もなく一家で上京。4歳で父と死別し、池内政忠(虚子の長兄)の養女となり松山に戻る。明治37年、尋常第一小学校(現・番町小学校)へ入学。後、尋常第四小学校(現・東雲小学校)へ編入。大正3年、愛媛県立松山高等女学校卒業。今井五郎と結婚し上京する。大正9年頃から俳句を始める。昭和3年、「ホトトギス」に投句を開始。昭和5年、星野立子の「玉藻」創刊より参加。昭和15年、「ホトトギス」同人となる。昭和20年、波止浜町に疎開。昭和28年、愛媛新聞「婦人俳壇」の選者となる。昭和30年、上京。昭和62年、日本伝統俳句協会顧問。平成4年、死去。95歳。
松山城のふもと
つる女が幼少期を過ごした松山の城山のふもと。したたるような緑の樹木が美しい。