偉大な俳人17人の足跡

[遺稿集『葉桜』より][遺稿集『葉桜』より]

鋭敏な感性が息づく"人間探求派"
「葉桜の中の無数の空さわぐ」

篠原 梵

しのはらぼん

若手俳人として『石楠(しゃくなげ)』(臼田亜浪主宰)全盛期の一翼を担い、石田波郷、中村草田男、加藤楸邨とともに「人間探求派」と目されたが、企業人として雑誌編集に心血を注ぐため句作から遠ざかり、しだいに忘れられた存在となった。

だが、豊かな抒情性と知性を映す句は、隠語や省略の要素をもつ切れ字を意識的に避けるとともに、日本古来の詩歌のリズムである五七七を基調としたことから、平明で独特のリズム感がある。また、自然の一瞬のきらめきを鋭いまなざしでとらえた季感あふれる句は、時代を超えて鮮烈な印象を残す。

梵は、旧制松山高校時代に『石楠』所属の川本臥風のもとで俳句に親しんだ。山仲間がふざけて呼び合った少年を表す伊予の方言「ぼん」を俳号とし、清浄の意味がある漢字をあてた。また、中学時代より皿ヶ嶺や石鎚山などにしばしば登ったことから、第一句集のタイトル『皿』は皿ヶ嶺から命名した。

大戦中の一時期、中央公論から離れたが、復社後は復興に力を注ぎ、毎日出版文化賞、電通広告賞を受賞するなど、名編集長として戦後の礎を築いた。

こうした事情もあり俳句とは距離を置いていたが、50代半ばから口語俳句を試みるようになり、昭和49年に総合句集『年々去来の花』を刊行。翌年、松山へ帰省中に体調を崩し、急逝した。

【略歴】

本名・敏之。明治43年(1910)伊予郡南伊予村(現・伊予市)生まれ。松山高等学校で川本臥風(「石楠」所属)に師事、東京大学国文科時代に『石楠』臼田亜浪(うすだあろう)門に。昭和13年、中央公論社入社。19年に退社し愛媛青年師範学校教諭となるが、23年復社。編集部長、出版部長を経て㈱中央公論事業出版専務取締役、丸ノ内出版代表取締役。50年10月、肝硬変のため65歳で逝去。句集に『皿』『雨』『年々去来の花』(同別冊「径路」は自伝的回想集)。道後の常信寺に墓がある。

【ゆかりの地】

皿ヶ嶺(さらがみね)

皿ヶ嶺(さらがみね)

梵がよく登山した皿ヶ嶺(東温市・上浮穴郡久万高原町)。標高1271m、皿を伏せたような山容。(写真提供/東温市産業創出課)

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