[写真提供/松山市立子規記念博物館]
斬新な意匠と滑稽思想
「永き日やあくびうつして分かれ行く」
夏目漱石
なつめそうせき
夏目漱石が俳句を作るきっかけとなったのは、第一高等中学校の同級生として正岡子規と出会ったこと。二人は、趣味の寄席を通して親しくなった。漱石は、子規の「七草集」を批評し、子規は、漱石の「木屑録」を批評するなど、刺激し合いながら親交を深めていった。英文にも漢文にも通じている漱石を「千万年に一人」の逸材と感嘆し「畏友」と呼んだ。子規がつけたあだ名は、「柿」。「うまみ沢山。まだ渋の抜けないのも混じっている」とは言い得て妙である。二人の友情は、生涯変わることはなかった。
明治28年、愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語教師とした赴任した漱石は、二番町の上野義方の離れ(愚陀佛庵)に下宿した。月給は、校長の60円を上回る80円。同年8月、日清戦争の従軍記者だった子規が病気静養のため帰郷し、漱石の下宿に仮寓する。毎日のように地元の「松風会」のメンバーとの句会が開かれ漱石もこれに加わる。二人連れだって道後温泉、鷺谷(さぎだに)、鴉渓、宝厳寺等を吟行したことも。その模様は、子規の「散策集」に収められている。50日余の同居は、漱石文学の端を発する出来事となった。松山、熊本時代には、実にたくさんの俳句を子規宛に送り批評を求めている。漱石の「俳句熱中時代」といえるだろう。ロンドン留学を経て朝日新聞社の社員となった漱石は、プロの作家としての道を着実に歩むこととなる。晩年の俳句は枯淡の俳味が加わったとされる。
慶応3年1月5日(新暦2月9日)、江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)生まれ。本名は、金之助。1歳で塩原昌之助の養子となる。(後に復籍)。帝国大学文科大学英文科卒。明治28年、愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語科教師として赴任。熊本県第五高等学校を経て、英国へ留学。帰国後は、一高、帝大講師。明治40年、朝日新聞社に入社し作家として執筆を開始する。虚子の勧めで書いた「吾輩は猫である」(38年)、「坊っちゃん」(39年)が「ホトトギス」誌上に連載され一躍文名を得たことが、作家漱石誕生のターニングポイントとなった。大正5年(1916)、49歳で永眠。
愛松亭跡碑と漱石の書簡碑
松山の城山の麓、萬翠荘入口付近にある。漱石は松山に来て数ヶ月の間、裁判所の裏山にあった「愛松亭」に下宿した。書簡は愛松亭から漱石が出したもの。