[写真提供/松山市立子規記念博物館]
行乞の自由律俳人
「ひよいと四国へ晴れきつてゐる」
種田山頭火
たねださんとうか
「自叙伝を書くならばその冒頭の語句として——私一家の不幸は母の自殺から初まる——と書かなければならない」
山頭火は、後年の日記にこのように書いた。母親が夫の放蕩を苦に井戸に身を投げたのは、10歳の時。母の姿を見たショックはその人生に大きな影を落とす。行乞(ぎょうこつ)の人生の発端もここから始まる。山頭火は、地元で「大種田」といわれるほどの大地主の長男として生まれた。山口中学から早稲田大学へ進学するが中退。帰郷し父親の酒造業を手伝うも、やがて破産する。弟の自殺、母親代わりの祖母の死、離婚、父の死、関東大震災と山頭火の人生には次々と暗雲が立ちこめる。大正15年、一鉢一笠の行乞流転の旅が始まる。酒に溺れる日々だったが、家郷を忘れることはなかった。
山頭火と文学の関わりは、14歳の頃から。学友たちと回覧雑誌を作るなどその萌芽を見ることができる。大正2年には、荻原井泉水に師事し、自由律俳句雑誌「層雲」に投句を開始。「層雲」との関わりの中で、その句友たちが、行乞の山頭火を支えている。山頭火の終(つい)の住み処となった松山市御幸(みゆき)の「一草庵(いっそうあん)」は松山在住の句友、高橋一洵(たかはしいちじゅん)、藤岡政一らが世話してくれたもの。一洵と山頭火は早稲田の先輩後輩に当たる。山頭火を一洵に紹介し、「一草庵」と名付けたのは、大山澄太(おおやますみた)である。山頭火は、風土が美しく人情の温かい松山の地で、「ころり往生」を遂げた。58年の生涯だった。死後70年余り、山頭火の人気はいまだ根強い。
明治15年、12月3日、山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)に生まれる。本名「正一」。明治35年、早稲田大学大学部文学科に入学。後、中退し帰郷する。山の頭(かしら)から火をふくような新しい文学の創造を望み、山頭火と号する。郷土文芸誌「青年」に翻訳その他を発表。大正2年、「層雲」の荻原井泉水に師事、投句を開始。大正5年、妻子を連れて熊本へ行き、古書店「雅楽多」開業。大正14年、出家得度。法名「耕畝」。味取観音堂(熊本県鹿本郡)の堂守となる。大正15年、一鉢一笠の行乞放浪始まる。昭和7年、「其中庵」を結ぶ。昭和14年、松山に「一草庵」結庵。翌年の10月10日、死去。句集に『鉢の子』、『草木塔』、『山行水行』、『雑草風景』、『柿の葉』、『弧寒』、『鴉』、一代句集『草木塔』がある。