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神戸大学山口誓子学術振興基金実行委員会]
硬質の抒情
「炎天の遠き帆やわがこころの帆」
山口誓子
やまぐちせいし
「私は山口誓子です。私のことをちかこさんとか、せいこさんとかいう方がありますが、私は山口せいしです。」昭和41年9月23日、「正岡子規・夏目漱石・柳原極堂生誕百年祭」の最終日、松山市民会館中ホールの壇上に立った山口誓子は、このようにユーモアを交えて話し始めた。実は、誓子の俳号は本名の新比古(ちかひこ)をもじったもの。俳人らしい茶目っ気である。この日誓子は、「子規の俳句について」という演題で講演している。
誓子はかつて住友の社員であり、住友の別子銅山のあった愛媛を訪れる機会があった。「大露頭赭くてそこは雪積まず」という句は、昭和32年2月、事業発祥の旧別子を訪ねた時に詠まれた。また、愛媛には『天狼』同人の谷野予志がいるなど誓子と愛媛との関わりは深い。
幼少時より外祖父に育てられた誓子は、京都、東京、樺太、再び京都へと転居を重ねた。特に多感な少年期を過ごした樺太での経験は、誓子の俳句に影響を及ぼしたことは確かだろう。樺太の大泊中学時代、上級生と俳句回覧雑誌を出すなど俳句に対する関心を深めている。京都の三高時代には、「ホトトギス」「京鹿子」へ投句を開始。昭和の初めには、「ホトトギス」雑詠欄で頭角を現し、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝と共に「四S」の時代を現出した。後に、花鳥諷詠の「ホトトギス」を離脱した誓子は、「馬酔木」に加わり新興俳句運動に参加、鋭い感性で俳句の現代性を追求した。また近代的な新しい素材を俳句に取り込み、映画のモンタージュの技法から「写生構成」を唱え、独自の俳句を完成させた。
病気の悪化を機に住友を退職した誓子は、戦後、俳誌「天狼」を創刊・主宰。桑原武夫の第二芸術論に真っ先に反撃するなど戦後の俳壇を引っ張っていった。
明治34年、11月3日、京都市に生まれる。本名、新比古(ちかひこ)。第三高等学校を経て東京帝国大学法文学部に入学、「東大俳句会」に参加する。大正15年、東京帝大を卒業、大阪住友合資会社に入社。昭和2年より「ホトトギス」課題句選者、昭和4年には「ホトトギス」同人に推される。昭和7年、第1句集『凍港』刊行。昭和10年、「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」に加盟。昭和23年、主宰誌「天狼」創刊。同人に秋元不死男、橋本多佳子、平畑静塔、西東三鬼、高屋窓秋、谷野予志らがいた。昭和32年より朝日俳壇選者。句集に『凍港』、『黄旗』、『激浪』、『遠星』、『不動』など。著書多数。平成6年、死去。92歳。