稲畑汀子いなはた ていこ
日本伝統俳句協会会長 「ホトトギス」主宰
萬翠荘


萬翠荘は松山藩主であった久松家の子孫である久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が建てた瀟洒な別邸で、現在は様々なイベントに利用されている。元来そこは菅という松山藩の家老の家があったが、明治になって家老の家は取り払われ、或る古道具屋が住まっていた。夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任して來た時に最初に寓居したのがその古道具屋の二階であった。
明治二十八年に東京から帰省した高浜虚子は漱石を訪ねた時のことを次のように書いている。「其の広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑に続いている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかり這入っていくと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建ての家があった」その家の裏庭の方に出ると「蓮池の手前の空地の所に射垜があって、そこに漱石氏が立っていた」と。漱石は弓の練習をしていたのであった。
その後漱石は二番町の横町に引っ越すが、そこへ須磨の保養所を退院した子規が転がり込んで来て一緒に住んだ。いわゆる愚陀佛庵である。
古道具屋の居た一番町の家は、何年か後に久松家の所有となり、久松家の用人をしていた虚子の長兄政忠が留守番かたがたそこに住まうようになり、虚子は帰省する度にいつもその二階に寝泊まりをした。
長兄が久松家の用人をやめて後、藤野古白(ふじのこはく)の老父君で子規の叔父である藤野漸(ふじのすすむ)翁が久松家の用人として住まい、大正三年には虚子の次兄池内信嘉(いけのうちのぶよし)が松山で能を催すために宝生新(ほうしょうあらた)や虚子、碧梧桐と共にここに泊っている。
そのような縁もあって、〈なつかしき父の故郷月もよし〉という父高浜年尾の句碑が萬翠荘の前庭に建てられている。この句碑の除幕式には私も出席したので懐かしい思い出である。