【愛媛県伊予市】平家の美しい姫が身を投げ、五色の石となった伝説が残る五色浜


2023.12.28

五色姫海浜公園

平家の姫が身を投じて五色の石になったという伝説が残る五色浜。美しい松林の中に歴史を伝える記念碑が数多くあり、旧灯台や彩浜館、さざえ堀をはじめ内港や沖に見える島々の景観がとても素晴らしい場所です。隣接する「五色姫海浜公園」は白浜が美しい海水浴場で、ビーチバレーのメッカとして公式戦も行われています。また広場はイベントなどの会場として利用され、春は港を望む花見や五色姫復活祭、秋には観月「いもたき」など催しが行われています。

萬安港の歴史を伝える旧灯台

大洲藩の米や物産の積み出し港として栄えた萬安港。文化9年(1813年)から23年にわたって大洲藩波戸御用係岡文四郎と町方らが築き上げたこの港は、後に郡中港と呼ばれました。ここ萬安港は波が激しく、砂や小石で港口が浅くなって、出入りの商船や漁船は難儀していました。そこで郡中町では、明治2年(1869年)長さ40間(約80m)の石垣の砂留を築くとともに、翌明治3年(1870年)には、その先端に灯台を築造して毎夜船の航行安全を守ってきました。この灯台が現在の場所に移転したのは大正元年(1912年)。以降、市指定文化財となったこの灯台は、港とともに開けた伊予市の風情として美しさを表すとともに、明治初期の風格を残している貴重な文化遺産となっています。

道後温泉本館と対抗した彩浜館

道後温泉本館の建設に対抗すべく、明治27年(1894年)郡中町の有志らが資金を拠出し、「異人建て」といわれた洋風トラス組の彩浜館が建てられました。日露戦争の最中には松山に収容されていたロシア兵捕虜将校を接待し、明治42年(1909年)にはあの伊藤博文も来遊。静養のため愛媛を訪れ、郡中駅に到着後、五色浜神社、稲荷神社を参拝。彩浜館には三時間ほどの滞在だったと言われています。平成元年(1989年)に旧館の姿そのままに改築され現在に至ります。

また彩浜館の裏庭には不思議な形をした「さざえ堀」(写真3枚目)があります。このさざえ堀、港を築いたとき螺旋状に石を積み、砂を盛り上げて作った堀で、堀の水は港の海水の動きとともに上下するので、これによって潮の満ち干を知ることができたそうです。形が「さざえ」に似ていることからこう名付けられ、かつては鯛を飼っていたこともあるという、他に例のない貴重な遺構です。

宮内家の功績を記す「郡中巷衢創業原誌碑」

明治18年(1885年)郡中の町づくり250年を記念して町の有志が計画し、明治27年(1894年)郡中町の創始250年を記念して建てられました。表面の「郡中巷衢(こうく)創業原誌碑」碑名は、幕末に活躍した宇和島7代藩主伊達春山(宗紀・むねただ)の書。裏面には、漢学者山下清風(武智五友)の撰文、書は俳人河東碧梧桐の父である有名な書家河東坤(こん)のもので、郡中町誕生のいきさつと灘町を拓いた宮内九右衛門・清兵衛兄弟の功績が詳しく述べられています。

「けだし伊予一州の美は伊予一郡にあつまり、伊予一郡の美は、今日の郡中にあつまるなり。然れども、先に宮内ニ子なかりせば、則ち其の美を尽くして、今日の郡中を成し能わざりしなり。二子の功まことに偉なるかな」とあります。

碑の高さは約4.3m、松山市沖の興居島で採った花こう岩です。

伊藤博文も訪れ扁額を寄進した五色浜神社

江戸時代、法昌寺付近にあった住吉宮を明治4年(1871年)に遷宮し住吉神社とし、同じく菅原道真を祭る天神社を合祀して明治42年(1909年)に五色浜神社となりました。当時は五彩濱神社と呼ばれていたそうです。宮内家など当時の郡中有志の寄進によって建てられたことが石柱に刻まれています。五色浜神社の拝殿正面には、明治の元勲伊藤博文の筆による社号もあります。毎年7月最終週に開催される「伊予彩まつり」の前身が「住吉まつり」と呼ばれていたのも、この神社が由縁とされています。

五色浜カニ広場

平家の五人の姫がこの浜辺で五色の石になったという伝説。

文治元年(1185年)栄華を誇っていた平家が滅亡して間もないころ、この浜辺に五人の美しい姫たちが小舟で流れつき暮らしていました。ある日、一番年上の姫が、砂浜をはっている「赤いカニ」を見ているうち、「赤いカニ」は平家で「白いカニ」は父・兄を亡きものにした源氏と想い込み、「白いカニ」を踏みつぶしてやろうと、四人の妹姫に探してくるよう命令しました。四人の姫たちは「白いカニ」を見つけることができなかったため、「赤いカニ」に白粉を塗って持ち帰りました。しかし姉姫に見破られ、末の姫は斬られ、他の姫たちもつぎつぎと、暗い海の底へ沈んでいったそうです。その夜、年上の姫も妹姫たちの沈んでいった海へ身を投げ、そうして亡くなった五人の姫たちが、赤・白・緑・黄・黒の美しい五色の小石となり、この浜を五色浜と呼ぶようになったそうです。

土地の人々は、五色の石を手にして悲しみに打ちひしがれ、石になってしまった姫達が生き返ってくれることを日々願いました。人々の涙が、数滴五色の石にふりそそぐと不思議なことに海のかなたから、五色姫達が再びよみがえり、土地の人々と幸せに過ごしました。それ以来、「五色の色に願い事をするとかなえられる」という言い伝えが広まり、祈願成就の「ねがい石」として現代に伝承されています。ねがい石は特に五のつく日と神社祭事日に五色浜神社へ奉納し、願い事をするとかなえられるんだそうです。

この伝説にちなんで、広場中央には大きい「白いカニ」をデザインし、ステージ上には5色の石が配置されています。また伊予市のシンボルでもある旧灯台のミニチュアもステージ上に設置されています。

赤=紅簾片岩
白=石英
緑=緑泥片岩
黄=珪石
黒=安山岩

藤谷豊城翁像

郡中港の大改修に尽力した第7代町長。郡中銀行や南予鉄道会社、伊予汽船会社などの設立に携わり、明治44年(1911年)から大正4年(1915年)まで町政を担当。町発展の礎を築きました。書は小説「坂の上の雲」で有名な、陸軍大将・秋山好古のものです。

陶惟貞翁碑

江戸末期、栄養寺で私塾を開き約50年間に郷党の子弟2,000人の教育に専念した医師・漢学者。医師として人々の治療にあたったのち、教育者に転身し寺子屋を開いて子弟の教育に専念しました。質素・勤倹、ただただ人材の養成を一生の仕事とし、明治31年(1898年)この遺徳を讃え、地方教育後進奨励のため有志の手によってこの碑が建てられました。

鷲野南村碑

南黒田出身の儒学者。私塾橙黄園を起こして、京阪より直接書籍を購入して萬巻の書を読み詩作に励んでいました。とにかく生涯を通じて学問に励み、また上述の陶惟貞との親交も深く、俊英を多数輩出するなど子弟の教育に努めました。

おわりに

いかがでしたでしょうか?

伊予市が誇る景勝地、五色浜。風情ある灯台あり、数々の記念碑や句碑ありと、歴史や伝統を目一杯感じられる素敵なスポットです。また夕日がとても美しい場所でもありますので、日の入りの時刻をめがけて訪れ、海で物思いにふけるのもいいですよね。

おしまいに、俳人・正岡子規が伊予市上吾川からこの地を眺め、詠んだ句をご紹介してお別れです。

「夕栄(ゆうばえ)の 五色が濱を かすみけり 子規」

駐車場も広く、アクセス良好。
ぜひ伊予市・五色浜にお越しください!

記事投稿者:かず

ひめ旅部のかずです。生まれも育ちも愛媛県は伊予市。「伊予の本気」をお届けできるよう県内各地に出没中です。ひめ旅部の記事をきっかけに、カメラを持ってお出かけしていただけると嬉しいです!きっと、あなたの知らない愛媛が待っている?!